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第9話 いなくなる前の日常②

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-07-13 21:30:51

 その言葉が、ひどく静かに落ちた。

 屋敷の台帳はここへ残してください。

 つまり、自分はもう公爵家の内側にあるものを持っていかないのだと、そう宣言したのに等しかった。療養先へ一時的に移るだけの女主人なら、むしろ台帳の控えを持ち、必要に応じて指示が出せるよう整えるはずだ。だが彼女はいま、それを明確に断った。

 クラウスの喉仏が小さく動く。

「……承知いたしました」

「引き継ぎの件で何か困ることがあれば、南へ書状を。お返事は遅れるかもしれませんけれど、目は通します」

 それもまた、ごく自然な言い方だった。だがそこに含まれているのは、あくまで「助言」であって「統率」ではない。リュゼリアは自分の役目を少しずつ、自分の手で剥がし始めている。

 そのことに、部屋にいる誰もが気づいていた。

     ◇

 小応接間を出たあとの廊下で、若い侍女がひとり泣きそうな顔をして立ち尽くしていた。

 まだ十代の半ばで、先月ようやく奥方付きの補佐へ回されたばかりの娘だ。細い肩を小さく縮め、手にしたリネンの束を抱きしめるようにしている。通りすぎるつもりだったリュゼリアは、その顔色を見て歩みを止めた。

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     社交の台帳もまた、彼女が整えていたものの一つだった。客の好みだけではない。誰が喪中で、誰が病床にあり、誰の家は表向き華やかでも内側は冷え、どの家には香りの強い花が不吉とされ、どの夫人は甘すぎる菓子を嫌うか。そうした、少しでも外せば関係にひびが入る目に見えぬ均衡を、彼女は何の苦もないように保っていた。「全部、持ってこい」 ヴィルレオは言う。「社交台帳の旧版も、新版も、札も、贈答の履歴もだ」「はい」「今夜中に全部見直す」 クラウスが去ったあと、ヴィルレオはしばらく紙の上の「淡紅の花束」という文字を見つめていた。もしこのまま送られていれば、公爵家の恥になるところだった。恥だけでは済まない。相手の喪へ塩を塗ることにもなりかねない。 そういう事故を、リュゼリアは三年のあいだ一度も起こさなかった。 ただ一度も。 それがどれほど異常なことか、彼は今になって理解しつつあった。 日が落ちかけるころ、さらに医師が書斎へ顔を出した。王都の屋敷に詰めている、リュゼリア付きではない内科医だ。彼は礼を取りつつも、どこか言いにくそうに口を開いた。「旦那様、少々」「何だ」「この二日、夕食がかなりお進みでないと厨房から」 ヴィルレオは眉を寄せた。そんな報告まで上がるのかと思ったが、すぐに理由がわかった。これまでは彼の食の進み方を、リュゼリアが静かに吸収していたのだ。少し残しても、翌朝の茶や昼の塩気で整え、長く机に向かった日には苦い茶を置き、北方帰りには汁物を増やす。だから医師へわざわざ伝わるほど「食が進まない日」が目立たなかった。「問題ない」「頭痛は」「ない」 短く返したが、医師は引かなかった。「書斎の灯りも、昨夜はかなり遅くまで」 ヴィルレオは黙る。「奥様がいらした頃は、朝の食事や昼の茶で自然に調整がされておりました。今は旦那様ご自身が気づいてくださらねば、体調は崩れます」 その言い方に、胸の内側がまた重く沈む。 自分の健康管理まで、彼女は屋敷の中へ組み込んでいたのか。 しかも、本人にそれと悟らせぬ形で。「……わかった」 ヴィルレオはようやくそう言った。 医師が下がったあと、書斎にはまた静寂が戻る。だがその静寂は、もはや落ち着きではない。帳簿、人員、社交、健康管理。どこをめくっても彼女がいる。そのくせ、肝心の本人はもうこの屋敷におらず、南の

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    「これは、いつもあったのか」 ヴィルレオが問うと、会計係はすぐに答えられなかった。「……はい。奥様が月ごとに確認なさる際、必要なものはご自身で書き込んで」「その指示がなければ?」「判断を仰ぐしか」 つまり、止まる。 屋敷は大きい。動く金も人も多い。表向きの支出や公式の寄付だけなら、誰でも記録できる。だが、そこから少しだけはみ出した部分。寒い季節にだけ増やす毛布代。厨房の古株の母親が倒れた月の薬代。夫を亡くした若い侍女の弟へこっそり送る学用品。そうした“なくても屋敷は回るが、ないと人が傷む”部分を、リュゼリアは静かに拾っていたのだ。 ヴィルレオは次のページをめくる。 また彼女の字がある。『クラウス、王城泊まり翌朝の来客は詰めすぎない』『旦那様の北方帰りの夕食、香草減』『庭師エルンスト、雨前は膝痛む。石段掃除は若い者へ』 その一文に、侍女頭も会計係も黙ったまま視線を落とした。 彼女は、屋敷全体の健康管理までしていたのだ。 使用人の体調も、自分の夫の食事も、出入りの時間も、天候と古傷の関係まで。 どこまで見ていたのかと、いまさらぞっとする。 同時に、その視線がもうこの屋敷の中にはないという事実が、重くのしかかる。「……旦那様」 クラウスが低く言う。「奥様が南へお発ちになってから、どこも表向きは滞りなく進んでおります」「そうだな」「ですが、実際には皆、奥様のお書き残しや、それまでのご指示をなぞっているだけでございます。新しく判断せねばならぬことが出るたび、どうにも」 言葉の続きを、ヴィルレオは聞かずともわかった。 止まるのだ。 屋敷は回っているように見えて、実際には彼女の残した手触りに頼っているだけ。新しい判断のたびに、誰もが無意識に「奥様ならどうなさったか」と考えてしまう。 その時、書斎の扉が控えめに叩かれた。 料理長だった。呼ばれていたことを覚えていたらしい。彼はいつもより少しこわばった顔で一礼する。「お呼びと伺いまして」「朝の食事だ」 ヴィルレオが単刀直入に言うと、料理長の顔にすぐ理解の色が広がった。彼は大きな体をさらに縮めるように頭を下げる。「申し訳ございません」「なぜ香草が増えた」「増やしたつもりは……いえ、奥様がおられた時は、わたくしどもが味を決める前に、朝はもう一つ香りを引けと」 料理長は苦い

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     リュゼリアが南の別邸へ移ってから四日目の朝、ヴィルレオは普段より早く目を覚ました。 眠れなかったわけではない。眠りはした。だが深くはなかった。夜半に一度、まだ暗い廊下を誰かが静かに歩く音で目が覚め、そのあとしばらく天井を見ていた。目を閉じれば、南の別邸の窓辺で土のついた指先を見下ろしていたリュゼリアの横顔が、ひどく鮮明に浮かんだ。 息がしやすいわ。 そう言った声も。 その言葉を聞いてわずかに安堵したはずなのに、王都の屋敷へ戻った途端、胸に残るのは別の種類の違和感ばかりだった。 大きな異常はない。 それなのに、何もかもが微妙に噛み合っていない。 その感覚を今朝も抱えたまま、ヴィルレオは寝台を下りた。 冷水で顔を洗い、濃紺の上着へ腕を通す。鏡の中の自分はいつも通り整っている。だが、整っていること自体がどこか空々しい。王都に残された公爵としての顔を、身体だけが律儀に作っているようだった。 食堂へ向かう途中、窓辺を抜ける朝の光が少し強すぎることに気づいた。東側の長窓のレースが薄いのだ。昨日も同じことを思った。まだ替えられていないらしい。たったそれだけのことなのに、視界へ差し込む白さが妙に刺さる。 食堂の扉が開かれる。 長い卓の上には朝食が整えられていた。薄く焼いたパン、卵料理、温めた乳、果実の皿、紅茶。見た目に不足はない。銀器も磨かれ、花瓶には控えめな白い花が挿されている。だが、ヴィルレオが席へ着いた瞬間、また違和感が走った。 茶が遅い。 それ自体は数十秒の違いにすぎない。侍従がポットを持ってすぐ脇へ来る。注がれる紅茶も適温だ。問題などどこにもない。なのに、ヴィルレオは自分が茶を待っていたことに驚いた。 以前は待った覚えがない。 座ればすでに、ちょうどよい濃さで、ちょうどよい温度のものがそこにあった。誰がどう指示していたのか考えたこともなかった。ただそうなっているものだと思っていたのだ。 紅茶をひと口飲む。 悪くはない。だが香りが少しだけ強い。ベルガモットの量が、ほんの微かに多い。昔からヴィルレオは朝の茶に強い香りを好まない。それを知っているのは、クラウスと、料理長と、そしてたぶんリュゼリアだった。 いや、とヴィルレオは思う。 たぶんではない。 知っていて、変えさせていたのだろう。「旦那様、卵は本日は半熟にて」 給仕がそう告げ

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     結局、便箋の上に落ちた文字はごく短かった。『本日の体調はいかがか。無理をせず、医師とアイダの指示に従え。必要なものがあれば、些細なことでもすぐ知らせろ』 まるで命令書のような文面だ、と自分で思う。 だがそれ以上をどう書けばよいのか、本当にわからなかった。白薔薇が咲いたことも、食卓の味のことも、朝の視線のことも、どれも言葉にした瞬間、あまりに生々しくなりそうだった。 書き終えてからもしばらく紙を見つめる。 いっそ破り捨てようかと思ったが、結局そうはしなかった。封をし、クラウスへ託すために机の端へ置く。 だが、手を離してからも、ヴィルレオの視線は封筒から動かなかった。 これを受け取ったリュゼリアは、どんな顔をするのだろう。 また命じられたと思うだろうか。離れていてもなお、自分の身体の扱い方へ口を出されていると感じるだろうか。 それとも、何も感じないのか。 その可能性が、いちばん恐ろしかった。 以前のリュゼリアなら、どれほど簡素な文面であっても、彼から届いた書状を何度か読み返したかもしれない。そこに書かれていない感情を探し、言葉の選び方ひとつへ意味を見いだそうとしただろう。 けれど、いまの彼女はもう違う。 王都を発つ朝、馬車の窓から自分を見た彼女の瞳には、かつてのような期待がなかった。完全な無関心でもない。痛みも、未練も、まだ残っている。けれど、そのすべてを自分の内側へ引き取り、もう彼へ答えを求めまいとする静けさがあった。 この命令書のような文面では、その静けさへ何ひとつ届かないのではないか。 ヴィルレオは再び封筒へ手を伸ばした。 一度閉じた封蝋を割る。 紙を取り出し、短い文面の下へペン先を置いた。だが、書き加えるべき言葉が出てこない。 白薔薇が咲いた。 それだけなら書ける。 お前が見たがっていた花が咲いた、と。 だが、そこから先をどう続ければいいのか。 見せてやりたい。 戻ってきた時に見ればいい。 枯れる前に届ける。 どの言葉を選んでも、自分の都合ばかりが前へ出る気がした。 そもそも、彼女は王都の白薔薇より、いま自分で植えた小さな白と青の苗が咲くことを望んでいるのかもしれない。ここへ残したものより、南で自分の手で得たものを見たいと思うようになっているのかもしれない。 その考えは、胸へ鈍い痛みを落とした。 リュゼ

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     ヴィルレオは温室のガラスへ手を当てた。夜の冷たさがすぐ向こうにある。自分は何をしているのだろう、と不意に思う。 離縁は受けないと決めた。 去らせるつもりもない。 それなのに、屋敷へ戻っている間に、ここでは白薔薇が咲き、南では彼女が土に触れ、少しずつ息のしやすい朝を覚えていく。自分がいようといまいと、時間は勝手に進む。そのことが、どうしようもなく焦りを生んだ。「……旦那様?」 振り返ると、温室の入り口に庭師が立っていた。年配の男で、リュゼリアへいつも静かな敬意を払っていた者だ。彼は手に剪定ばさみを持ったまま、ためらいがちに近づいてくる。「何だ」「こちらへいらしたと聞きまして。……白薔薇が、今朝ほど開きました」「見ればわかる」「はい」 庭師は少しだけ黙り、それから低く続ける。「奥様が、ご出立の前日まで気にしておられました」 またその言葉か、とヴィルレオは思う。思うくせに、聞き流せない。「そうか」「館へ送りましょうか」 白薔薇を、南の別邸へ。 一瞬、その案に手を伸ばしたくなった。彼女が見たかった花を、すぐにでも届ければいい。明日の朝一番に馬を飛ばせば、夕方には着くかもしれない。 けれどヴィルレオはすぐには頷けなかった。 あの白薔薇を見せることは、何になるのだろう。慰めか。埋め合わせか。いまさらの優しさのひとつか。そう思った瞬間、リュゼリアの「あなたの愛など要りませんので」という冷たい声が胸の奥で蘇る。「……まだいい」 結局そう答えると、庭師は一礼した。 温室を出て、廊下へ戻る。夜の屋敷は昼間よりさらに静かだ。燭台の光が長く床へ伸び、遠くで扉が一枚だけ閉まる音がする。 残された屋敷。 その言葉が、不意に胸へ浮かんだ。 彼女がいないことで空っぽになったのではない。むしろ、彼女が残していった細部ばかりが濃く浮き上がり、それにいま自分だけが取り囲まれている。花の匂い。食卓の香草。付箋のない書類。低すぎる花瓶。廊下の光。温室の白薔薇。 この屋敷には、彼女の気配が薄く、しかしどこにでも残っている。 それが、たまらなく居心地が悪い。 同時に、その気配にすがりたい自分がいることも認めざるを得なかった。     ◇ その夜、書斎の机へ向かっても仕事は進まなかった。 必要な決裁は済ませた。返書も書いた。だがそのあとは紙の上の文字

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    パート3     ◇ 夕食は、結局いつもの大食堂で取った。 長い卓。高い天井。壁の燭台。整然と並ぶ皿。王都の公爵家にふさわしい食堂の姿は、何一つ変わっていない。卓上の花は昼間とは別の淡色のものへ替えられていた。香りは控えめだ。誰かが先ほどの失敗を挽回しようとしたのだろう。だが、その花の高さはやはり少しだけ低く、色もわずかに季節へ早すぎた。 ヴィルレオはひとりで卓の一端へ座った。 以前から食卓での会話は多くなかった。リュゼリアも必要以上には喋らない。だから、彼女がいなくても食堂は静かなままだろうと考えていた。実際、音としては変わらない。食器の触れ合う音、給仕の足音、遠い暖炉の爆ぜる音だけがある。 なのに、食堂そのものの広さが違って感じる。 卓が長すぎる。 燭台の光が遠すぎる。 スープの湯気が冷たく見える。 向かいの席が空いている。 そこにリュゼリアが必ずいたわけではない。彼女は真正面ではなく、少し斜めの位置に座ることが多かった。けれど、その席へ置かれた皿と、そこへ向かう目線と、スプーンを取る指先の小さな動きが、ひとつの食卓としての輪郭を作っていたのだと、いまさら気づく。「……旦那様」 給仕役の若い侍従が、魚料理を置きながら戸惑ったように声をかける。「どうした」「温かいうちに、と」 自分が手をつけていないことに気づき、ヴィルレオはようやく皿へ視線を落とした。白身魚の蒸し焼き。根菜の付け合わせ。どれも見た目は整っている。だが、一口食べた瞬間、味が違うとわかった。 不味いわけではない。 塩も火入れも問題ない。だが、ほんの少しだけ香草が強い。以前なら、王都での自分の夕食にこの程度の変化があっても気づかなかったかもしれない。いや、気づいても流していたはずだ。 けれどいまは、はっきりわかる。 リュゼリアはいつも、彼の夕食に使う香草をひとつ減らさせていたのだ。本人は一度もそれを口にしなかった。料理長への指示に、さらりと紛れ込ませていたのだろう。 味ひとつにすら、彼女はいた。 ヴィルレオはフォークを置いた。 食欲が消えたわけではない。だが、これ以上食べ進めることに意味を感じなかった。そうやって席を立とうとした瞬間、向かい側の空席が視界へ入り、嫌でも思い出す。 南の別邸での、ひとり分の食卓。 あの小さな食堂で、彼女は「ちゃんと食べてい

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